またふとす!

また書きます。

変化を楽しむ

小学2年のときに犬に噛まれたことがある。

ともだちとおにごっこをしていて、

無断で人の家の敷地に入ったぼくは番犬に襲われた。

鎖につながれた番犬をぎりぎりのところでかわしていたのだけれど、

その敷地を飛び出す際、膝裏をかまれたのだ。

病院で4針縫ったことが、

ぼくの人生で一番の大怪我だと思う。

そんなことを思い返すと、これまで本当に無事に生きてこれた気がする。

 

 

今日は、中部学院大学の体育館竣工式典に参加してきた。

式典のメインはリオパラリンピック閉会式で踊った、

片足のダンサー大前光市さんのパフォーマンスだった。

初めて見るそのダンスに、大前さんが片足で踊っていることを忘れる瞬間が、

何度もあった。

それくらい美しい時間だった。

ダンス後のトークでは、

そのパフォーマンスとは一転して、とても気さくな印象を受けた。

「交通事故で片足を切断したことは何かをなくしたわけじゃなく、

 じぶんが違うものに変化したんだと思っている」

と何度も話されていた。

「だから、その変化を楽しんだらいい」と。

大前さんだからこその勇気を与えるあたたかい言葉だと思った。

 

老いていくことも変化である。

そしてだれもが行く道なのだ。

そのことを嘆くよりも、楽しむ。

何かを失うことは、以前のじぶんではなく、

変化をしたのだと受け入れ、そのじぶんを楽しむ。

それはどんな状況であってもあきらめずに生きてゆく上で、

じぶんを支えてくれる希望のような考え方だと感じた。

また一つ、大事にしたい言葉が増えた気がした。

 

6月の雨

久々に雨が降った。

そういえば、もう6月に入っていて、

梅雨の季節なんだと気がついた。

これから、雨が降ることも多くなるだろう。

空梅雨だからあまり降らないなんてことも聞く。

どっちにしろ、ぼくは雨が好きだ。

 

雨の日の休日に家の中で本を読んだりする。

雨が「今日はどこにもいかなくていい」と言ってくれているようで落ち着く。

しとしとと降る雨の音を聞きながら、

本の物語の中に行ったり、現実に引き戻されたりしていると、

いつの間にか眠ってしまう。

そういう時間が好きだ。

結局、寝ることが好きなのだ。

 

そんなわけで、今日も走らなかったな、と今思い返した。

雨が降っている想定をしてなかったため、

玄関のドアを開けてすぐに閉めた。

明日はどうするのか。

雨でも走るのか。

ちょっとでもいいから、走ろうと思う。

あらためて、動こうとする意思と、

動いているということが大事だと思う雨の夜。

 

明日はどうする

日曜はフットサルに行った。

そのおかげで今日も筋肉痛である。

それもあって、昨日今日と朝に走っていない。

だからといって、ダメだとは思わない。

以前のじぶんであれば、

走らなかったじぶんを「いけない」と思っていただろう。

でも、そんなことはない。

走る日もあれば、走らない日もあっていい。

だいたい走っていれば、いい。

 

じゃあ明日はどうするのか。

とりあえず早く起きるようにしてみようと思う。

そして、着替えて外に出る。

外に出て太陽を浴びてしまえば、もうこっちのものなのだ。

体と太陽の関係というのはおもしろい。

じぶんが動く力みたいなものをもらっているような気がする。

この時期だいぶん暑くなってきたけれど、

少しずつ走ることで、少しずつ走れるようになりたい。

そんな想いで、まずは明日起きることにする。

 

食わず嫌いをしない

デレステ」をやり始めた。

スマホのアイドルゲームである。

まったく関心がなかったこと、

興味がなかったことをとりあえずやってみる。

食わず嫌いをしないということは、

なにも食事だけじゃないよなと思う。

とまぁ、聞こえのいいことを言ってみたが、

星野源さんがやっていると聞いてどんなものかとやってみたのだ。

そういえば任天堂の「switch」に関しても、

「ほしい!」と思ったのは、星野源さんがやっているからという理由からだった。

 ミーハーとはほんとうに怖いものである。

それでも知らない扉をあけるときというのは、

こんな些細なきっかけなのかもしれないと思ったりもしている。

 

食わず嫌いをしないことをぼくは大切にしたい。

これは「りんごかもしれない」という絵本を描いたヨシタケシンスケさんが、

大切にされている「判断を断定しない」という考え方にも、

それは通ずるような気がしている。

人から聞いて判断するのでなく、誰かのを見て判断するのでもなく、

じぶんがやってみてどうなのか。

じぶんが今思っていることは、実はそうじゃないのかもしれない。

ただの思い込みなだけかもしれない。

そんなことばかり考えていたら、

いつまでたってもなにも信じられない。

けれど、それはそれでひとつの可能性としてのおもしろさでもある。

人はどこかでなにかを信じるのだろうけれど、

まずは食べてみること、やってみることがはじまりだ。

ということこそまさに、ぼくの思い込みかもしれないけれど、

「はじめる」気持ちでいれば、わくわくする機会はやってくるんじゃないかな。

虚構でも現実であっても、「おもしろい」を感じたいし、なんならつくりたい。

そんなことを今日も思っている。

 

ダムな気分

徳山ダムを見に行った。

行くつもりはまったくなかったのだけれど、

友達に連れ回されるように車で向かった。

山道を登りに登る。

青空と新緑が目に優しい。

ちょっとした石が落石していることに不安を覚える。

そんな感情の起伏と他愛のない話を繰り返しながら、

しばらく走ると見えてきたのは日本最大級のダムだった。

 

最初は億劫な気持ちだっただけれど、

突き抜けるほど真っ青な空と、それを写すダムの湖面、

それらを彩るように生い茂る新緑のすべてに心が和んだ。

徳山ダム事務所内にある資料や写真もちゃんと見て歩いた。

台風など大量の雨が降ると放水量を調節したりするらしい、

などという、おそらく当たり前なところに興味をそそられたりした。

これにより、ダムについて少しは知った気になれた気がする。

 

外に出るということはたくさんの発見に溢れている。

家でじっとしているのも嫌いじゃないけれど、

外に出ることで感じられる世界もあるのだ。

そんな当たり前のことに関心しながら、

ぼくはダムの周りを歩いていた。

 

友達に誘われることは嫌いじゃない。

だけれど、計画が好きなぼくからすれば、

突然どこかに行くのはあまり気が進まないのだろう。

そんなことも、あらためて知るじぶんがいた。

かといって、無計画に飛び込んでみることもやったりする性質も持ち合わせている。

ようは、気分なのだと思う。

何か予定があるからとかではなくて、じぶんの気分がどうなのか。

それはいくにもやめるにも、大切な理由の一つになるとぼくは思う。

できる限り、臨機応変に対応できるじぶん、

だけれども一番は、じぶんの気持ちを大事にできるじぶん、

そんな感じでありたいねー。

計画

計画することが好きだということに気づいた。

これまでといえば、

自主企画イベントだったり、結婚披露宴の余興だったり、

旅行のアテンドだったり、誕生日のサプライズだったりと、

なんやかんやあったな、今思うと。

当日どんな感じになるのかを妄想することが好きで、

できれば喜んでもらえることを願っていて、

実際喜んでもらえたときにはうれしさを感じるじぶんがいる。

つまりは喜んでもらうことが好きなのだ。

 

計画を考えるとき、仮定と妄想が入り乱れる。

こうしてみようと仮定する。

そうしてみたらどうなるかと、

これまでの経験から考えられるいろいろな流れを妄想する。

頭の中で、いろいろな形に変化させて、いけるとこまでいってみる。

そこから現実に帰ってきて、今度はまた違う角度で仮定する。

そしてどんな感じになるのかと妄想し始める。

それを繰り返して、じぶんが本当にわくわくすることをしようと決める。

その過程がぼくは嫌いじゃない。

直感と勢いも大事だけれど、

ぼくは人よりもきっと「練ること」が好きなほうだと最近気づいた。

 

この性質はきっと仕事にも活かせるんだろうけれど、

これまで「活かせてるぜ」と感じたことはない。

なんとかそういう意識で、

わくわくしながら仕事をしてみたい。

わくわくしながら生きたいものだなぁと思うのです。

コント

今日はもう、眠たいです。

職場で雑談をしていたら、家に帰るのが遅くなった。

2時間近くしゃべっていたようで、

盛り上がるおしゃべりというのは怖いものである。

夜になると、そして上司がいないと、

いろいろとしゃべりたくなるものでもある。

愚痴や不満はもとより、人の話やうわさ話などなど、

しゃべることはたくさんあるらしく、

終わりが見えないおしゃべりで夜は深まってゆく。

 

ぼくはといえば、意識的にじぶんの話をするようにしている。

人の話でも、相手の愚痴なんかでも、

最後は笑い話にしたいと思ってしまうのだ。

それはクセのようなもので、

最後に笑えるかどうか、笑いにもっていけるかが、

話の内容よりも大事だとさえ思っている。

そしてこれからもそのスタンスでいようと思っている。

語る相手に、聞くじぶん。

そのやりとりを客席から眺めるじぶん。

つくづくコントだよなぁ、と思うのである。