またふとす!

また書きます。

休日の計画

先日、計画することが好きなのだと気付いた。

そのことはこのブログでも触れたけれど、

あれから何も計画していない。

たとえば、きたる夏休みの計画だとか、

彼女をつくる計画だとか、何かを始める計画だとか、

考えてもおもしろいのだろうけれど、

目の前のことをこなしていると、

ただ時間は過ぎてゆくだけだ。

計画しようとする時間をつくらなければ、

計画は始まらない。

 

計画することはわくわくする。

わくわくしている時間というのは、

楽しく、素敵なものだと思う。

そういうことを身近にある小さなことから始めていきたい。

そんなことを考えていたらマラソンの練習を思い出した。

マラソン大会に向けて、練習をしなければならない。

にしても、平日はなかなか走れていないのが実情である。

実行しようとする時間を作らなければ、

実行は始まらない。

 

とにもかくにも、時間をつくることが必要なのだ。

裏を返せば、大切にしたいこと以外に使う時間を極力減らしてゆく。

大切にしたいことを決め、それを大切にするために、

時間を使っていくことが理想である。

それこそが大切な時間の有意義な使い方というものだ。

そして、それがなかなかできないのがぼくである。

時間を無駄にするのがあまりに得意なのだ。

 

そうとわかっているのなら、きっとやれることはあるはずだ。

明日は休みということで、ざっと予定をたててみる。

まず朝起きたら走る。

7時には起きたい。

ごはんを食べて、いつもなら撮りためたビデオをみるかもしれないが、

ここはジムに行って筋トレでもしよう。

そして、お昼ご飯をどこかに食べに行く。

普段行かないようなところにしよう。

そのついでに、買いたいものを買いに行こう。

そして、本屋にもよって気になる本を買ったら、家で読もう。

そんなふうに過ごしてみようとする。

 

これこそまさに、静と動が一体となった休日の過ごし方である。

簡単ながら、一応の計画はできた。

さてあとは実行に移すのみである。

笠松競馬

今日は仕事で笠松競馬場にいった。

よくよく考えてみると、競馬場には初めて来た。

笠松競馬場は昔ながらの競馬場で、

昔からのものを守り続けてきたというよりは、

そのままにしておいたらこんな味のある雰囲気に仕上がりました、

という感じがしている。

そこにいるのは基本おじさん。

それもなかなかたくさんのおじさん。

あ、おばさんもいる。

おじさんと手をつなぐおばさん。

そこにちらっと若いカップルもいたりする。

競馬場でデートなのか。

いろいろな妄想が掻き立てられる。

 

 

はじめてレースを生で見た。

馬が目の前を駆けてゆく。

そのスピードと音の迫力に圧倒された。

ちょっと馬券を買ってみた。

素人なりにいろいろと考えた挙句、

決めた馬券はあっという間に飛んでいった。

こういうときは考えないに限る。

そういうことを知る場でもある。

 

なんだかプライベートでも来たくなった。

 

半日ここで馬が走る様子を眺め、

馬券をちょろっと買って、串カツを食べて、

なんて日があってもいいなぁと思えた。

 

生きたくて生きている。

怒る人はじぶんが怒りたくて怒っている。

なんて話がアドラー心理学に出てくる。

だれかによって怒らされることなどない、というものだ。

もっと言えば、あなたのことを思って、などというのは、

じぶんが言いたいがためのただの屁理屈なのである。

 

その話はなにも怒りに限ったことじゃないと思う。

その会社で働くのも、歯を磨くのも、

だれかに愛を告白するのも、それを断るのも、

じぶんが「そうしたいから」であって、

「そうさせられている」なんてことはないんじゃないか。

なんて考えていくと、どれもこれもそうしたくてそうしている、

そんな人たちが集まっている世界なのだと思った。

 

食べたいから食べる。

怒りたくないから怒らない。

笑わせたいから笑わせようとする。

笑いたいから笑う。

どれもこれも当たり前のことだけれど、

だれかのなにかによって「そうさせられている」という考え方をとっぱらうと、

世界ははっきりとシンプルになる。

 

そしてそのすべてが「生きたがっている」につながるんじゃないのかな。

じぶんが生きたがっているから今日を生きる。

脈打つ心臓が、呼吸する身体が、生きようとしている。

そんなフィルターで覗いてみると、

じぶんや世界が違った見え方をするからおもしろいのだ。

生きたくて生きている。

怒る人はじぶんが怒りたくて怒っている。

なんて話がアドラー心理学に出てくる。

だれかによって怒らされることなどない、というものだ。

もっと言えば、あなたのことを思って、などというのは、

じぶんが言いたいがためのただの屁理屈なのである。

 

その話はなにも怒りに限ったことじゃないと思う。

その会社で働くのも、歯を磨くのも、

だれかに愛を告白するのも、それを断るのも、

じぶんが「そうしたいから」であって、

「そうさせられている」なんてことはないんじゃないか。

なんて考えていくと、どれもこれもそうしたくてそうしている、

そんな人たちが集まっている世界なのだと思った。

 

食べたいから食べる。

怒りたくないから怒らない。

笑わせたいから笑わせようとする。

笑いたいから笑う。

どれもこれも当たり前のことだけれど、

だれかのなにかによって「そうさせられている」という考え方をとっぱらうと、

世界ははっきりとシンプルになる。

 

そしてそのすべてが「生きたがっている」につながるんじゃないのかな。

じぶんが生きたがっているから今日を生きる。

脈打つ心臓が、呼吸する身体が、生きようとしている。

そんなフィルターで覗いてみると、

じぶんや世界が違った見え方をするからおもしろいのだ。

象の置物を買った。

近くのスーパーにある雑貨屋で売られていたそれは、

上から蚊取り線香をいれるようになっていて、

蚊取り線香置きとしての機能を第一に保有していた。

しかしながら、うちの母は、

「花を生けてもいいし、ペン立てにもなるよね」

といった。

そんなわけで、野生の象は我が家にやってくることとなった。

 

今、僕の机の上に置かれたその象は、なんの機能も発揮していない。

ただそこにいる。

しかし、ただそこにいることの素敵さというものを、

ぼくは象から勝手に感じている。

何をしていなくても、そこにいるだけでいいもの。

人だって、そういうもんだろうと、この象を見ながら思う。

だからぼくは、ただそこにいてくれることのありがたさと、

うれしさと素敵さなんかをするめのようにかみしめる。

その味はこのじぶんを驚くほど勇気づけるものなのだ。

 

ここのところ夜遅くまで起きている。

遅くと言っても夜中2時くらいなのだけれど、

昨日はその時間までサスペンスホラー映画を観ていた。

エスター」という映画で不気味な女の子が出てくる話だ。

ホラー映画をしかも夜に一人で観るなんて、

以前のじぶんだったらまずなかっただろうに、

人は変わるなぁとしみじみ感じる。

 

そんなふうにして夜を過ごしているのだが、

遅くまで起きていることは健康によくないことはわかっている。

むしろこれまでのぼくはというと、夜はちゃんと寝たい派だった。

けれど、夜だからこそ感じられるものがあるんじゃないかと、

このごろふと思い始めたのだ。

何かに夢中になることにおいて、

夜はもってこいの時間と空間なんじゃないか。

誰にも干渉されることなく、じぶんの世界に没頭できる。

それはじぶんの中のなにかを深めるためには、

大切な機会なんじゃないかと思うようになった。

 

早起きは三文の徳だとか朝起きなんてことばを、

いつのまにか鵜呑みにしていたけれど、

じぶんで試してみることで感じられるものがあると思い、

ここのところ遅くまで起きているのだ。

夜の帳が下りてからこそ、じぶんはつくられる。

そう思って、夜を楽しむのだ。

 

免許の更新

明日は月曜日だ。

本来であれば、仕事に行く日だが、

振り替え休日なるものを使ってお休みをいただいた。

なにも予定がないと思っていたけれど、

そういえば、免許の更新があった。

運良くゴールド免許でいれたため、

ながらく行く機会がなかったけれど、久々にやってきた。

ゴールド免許の場合、20分の講習だけで済むからありがたい。

それは今日まで事故なく運転できたことのたまものだ。

そしてそのことを少し奇跡のように感じたりする。

 

あれだけニュースで事故の話題を見ると、

いつじぶんの身に降りかかってきてもおかしくない。

それはまったくそのとおりだと思っていて、

ふせぎようのないものもきっとあるのだろうけれど、

なるべくじぶんが起こす側にならないようにと、

今になって気を引き締めるじぶんがいる。

めんどうくさいのは嫌だし、痛いのも嫌だ。

怒られるのも嫌だし、意図せず迷惑をかけるのも好きじゃない。

そんなことを考えると、安全運転というのは、

これまでもたくさんじぶんを救ってくれたのかもしれない。

 

岐阜に住んでいては車を乗らずして生活することはできない。

それはこの土地に住む者の「あたりまえ」となっていて、

よくよく考えると、違う土地ならそうじゃないこともあるのだ。

もちろん車に限ったことだけじゃない。

その土地にある生きる上での前提条件みたいなものを、

知らないうちに受け入れている。

そして、それはそういう時代だというくくり方もできる。

 

今、ここにいること。

だれかとおしゃべりしていること。

くるまに乗ってどこかへゆくこと。

生きることすべてが、ぼくが思っている以上に、

きっとすごいことなんだと思う。

生きること自体に感動することなんてなかなかない。

でも、そんなふうに生きられる日がたまにあってもいいなぁと思う。